「生きがいについて」6章後半
進捗
6章「自己との関係」、「不安」、「苦しみ」、「悲しみ」、「苦悩の意味」(P.125~P.140)
(色文字は本文から抜粋)
☆たとえひとの眼はごまかせても、自分は自分の前に立つ瀬がない。それに自分が自分を忘れているときでも、自分のありのままの姿は宇宙の前にさらされされいるではないか。・・・
自己に対してどのような態度をとるかにより、その後の生き方に大きなひらきが生ずることであろう。
- 日本人が古くから言う「お天道さまが見てるから」に通じる。
- どのような態度をとるかは、家族や身近な人との接し方というふうに考えた。
☆このような根源的な不安は、ほかの人間がいいかげんな気持ちで操作すべきものではない。・・・
むしろ人間はたったひとりでこの不安に直面し、対決しなければならないのである。
- 厳しいことばである、がエールのようにも思えた。
- 不安は人にとって重要で欠かせないもの。
- 著者のいきがい喪失者に対する敬意、尊重が感じられる。
- 不安に向き合ったり、対決するのではなく、あるがままに受け入れる。
- もうひとりの自分が寄り添う
☆生きがい喪失には必ず苦しみが伴う。苦しみは肉体的なものと精神的なものとに分けられるが、この区別は必ずしも明瞭ではない。・・・
身体的苦痛がおこったために、かえって精神的な苦痛が軽減されたり、消失したりすることがある。
- 実感としある。からだが快復してからの精神的苦痛は激しいものだった。
☆苦悩をまぎらしたり、そこから逃げたりする方法はたくさんある。・・・
もし新しい出発点を発見しようとするならば、やはり徹底的に苦しむほかないものと思われる。
- 若くして逝ったもの達の苦しみを後世にどう生かすかが、残されたものの課題であるのだろう。
☆ひとたび生きがいをうしないほどの悲しみを経たひとの心には、消えがたい刻印がきざみつけられている。それはふだんは意識にのぼらないかもしれないが、他人の悲しみや苦しみにもすぐに共鳴して鳴り出す弦のような作用を持つのではないだろうか。
☆「生きた悲しみ」
☆ひとたび深い悲しみを経て来たひとのよろこびは、いわば悲しみのうらがえしされたものである。・・・
そのなかでなおも伸びてやまない生命力の発現をいとおしむ心である。そのいとおしみの深さは、経て来た悲しみの深さに比例しているといえる。
- ここがいいという人、ここが嫌という人、両方あって両者とも尊重したい
☆「苦しみと悲しみの十字架こそわれわれの誇りうるものである。なぜならば「これこそわれらのもの」であるから。」
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