「生きがいについて」8章 全体
進捗 8章~
以下、管理人の読後感です。
神谷恵美子さんは、若いときから何回かの大病に見舞われてます。
晩年の深刻な病になって、次のような短い詩を遺しています。
こころとからだを病んで
やっとあなたたちの列に加わった気がする
島の人たちよ 精神病の人たちよ
どうぞ 同志として うけ入れて下さい
あなたと私のあいだに
もう壁はないものとして
忙殺の日々にありながら命を削るがごとく通った長島愛生園の患者さんたちとの間にも最後まで壁を感じていたことに驚かされます。
苦しみや悲しみは、どうしても人に伝え得ないもの、そういうものと自分は接しており、
だからこそ、より深く理解したいという欲求が生涯、衰えることがなかったことには目をみはるばかりです。
また、同じ状況にて次の詩も記されています。
かつて くすし たりしものが
今にして 病めるものとなる
かつて 病める心を みとりし者が
今にして 心を病みて
くすし みとる者 身内から
いたわれ ときにはあわれまれ
笑われる者となる
すべては順めぐり
すべては順めぐり
多分、私は初めてこの本を手に取ったときから、無意識のうちに、神谷さんのこのような人間性を感じていたのかもしれません。
彼女の他者、とりわけ弱者へ向かう深いまなざし、自分に起こりえたことを彼らが代わってくれている、という申しわけなさ感や、さらに言えば、学びの対象としてリスペクトさえしているのです。
そんな彼女の一部ではなく存在そのものに、不甲斐ない私の生も許されるのかと思わせてもらえている気になるのです。
そのことは、他者、例外なく誰の生も尊いということ、そうであるべきだという思いにつながり、
今、自分だけで閉じていた心の扉がすこしずつひらき始めているのを感じるのです。
以下、結びの部分を抜粋しておきます。
「人間の存在意義は、その利用価値や有用性によるものではない。野に咲く花のように、ただ『無償に』存在しているひとも、大きな立場からみたら存在理由があるにちがいない。自分の眼に自分の存在意味が感じられないひと、他人の眼にもみとめられないようなひとでも、私たちと同じ生を受けた同胞なのである。もし彼らの存在意義が問題になるなら、まず自分の、そして人類全体の存在意義が問われなくてはならない。・・・・・・
現に私たちも自分の存在意義の根拠を自分の内にはみいだしえず、『他者』のなかにのみみいだしたものではなかったか。・・・・・
これらの病めるひとたちの問題は人間みんなの問題なのである。であるから私たちは、このひとたちひとりひとりとともに、たえずあらたに光を求めつづけるのみである」
(お読みくださりありがとうございました。)